♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
花と光と風と…
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 日光東照宮        2008年










『陽明門』







 


初めての日光東照宮参拝 

あいにくの雨で始まった日光参拝でしたが、午後にはようやく晴れ間も見えて、日帰りの強行スケジュールのなか、パンフレットを片手に、目いっぱい歩き回りました。

日光山輪王寺
逍遙園
東照宮宝物館
三仏堂
金剛桜
五重塔
神厩舎(しんきゅうしゃ)
『見ざる・聞かざる・言わざる』の三猿
陽明門
逆さ柱
日光東照宮
本殿・拝殿
『眠り猫』
奥宮(家康公お墓所)
奥宮拝殿・宝塔
坂下門
薬師堂(本地堂)の『鳴龍』
日光二荒山神社
大猷院(たいゆういん)霊廟本殿
神橋


 
江戸幕府を開いた天下の名君、徳川家康公の霊廟として知られるこの日光東照宮は、国家安泰の為に『風水』を用いた事でも有名です。

 日光東照宮は江戸城と北極星を結ぶ線上にありますが、これは陰陽道で北極星は最高神であり、北極星と江戸城を結ぶ線上に家康を置くことで、家康を最高神の代理(東照大権現)とし、江戸を護るという意味があるそうです。

 東照宮といえば、何といっても、『見ざる、聞かざる、言わざる』の三猿の手彫り像が有名ですね。この神厩舎は神様に仕える神馬をつないでおく馬小屋です。

 欄間には、三猿の他にも様々な猿の姿を『人の人生』に見立てて、8つの場面に表しています。それぞれの場面に解説が書いてありましたので、写真と一緒にのせました。
















神厩舎







一) 母子の猿。
母親は子どもの未来までも考えている。




二) 子どもの内は、
悪いことは見ない・聞かない・話さない。


(日光の三猿)








三) じっくり腰を落ち着けて、
これからの人生を考える。









四) 若いうちは可能性が多い。
望みを大きく持って上を見る。








五) 崖っぷちに立たされた猿。
しっかりと足元を見る。





                    





六) 恋愛中?
やがて良き伴侶を見つけて結婚するようになる。










七) 二人で力を合わせれば、
世の荒波も乗り越えていける。












八) 妊娠した猿。やっと親の苦労もわかる。
二世誕生も間近。









『眠り猫』
名匠、左甚五郎の作と伝えられる国宝

 

 






ほんとに気持ちよさそう・・・!

 


           世界遺産

 日光東照宮は、「日光の社寺」として、1999年に世界遺産のうち、「文化遺産」として登録されました。
世界遺産には、『文化遺産』、『自然遺産』、『複合遺産』の3種類があります。
 この『日光の社寺』には、「日光東照宮」、「日光二荒山神社」、「日光山輪王寺」の3つの社寺が含まれます。
 これは、世界遺産登録基準10項目のうち、以下の基準を満たしたとして登録がなされました。

(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。

(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に 関連するもの

 (Wikipediaより)


 





眠り猫の裏にある『雀』

  表側には、眠り猫が描かれ、その裏にはスズメが楽しく遊んでいる姿が・・・。
 ・・・猫が寝ているから雀は楽しく暮らしていられます。これは戦乱が治まり、平和な時代が訪れたことを意味しています。そして、その平和は、ひとえに東照宮の御祭神である家康公によってもたらされました。従って、「眠り猫」は、平和のシンボルなのだと言われています。








縁結びの木



 
 




日光山 輪王寺 三仏堂



 




日光二荒山神社



 













神橋









日光二荒山神社









天海大僧正














 
「気は長く、勤めは堅く、色うすく、食細くして、心広かれ」   (天海大僧正の遺訓)

 
天海大僧正(慈眼大師)は、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕え家康亡き後、その遺言により日光の地に東照宮の造営を指揮し、21回目の法要には、家光と共に大規模な改修・増築を行いました。
 
 この天海大僧正の素性には多くの説があり謎に満ちていて、その一説に明智光秀であるという説があります。明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、京都の合戦に敗れ、落ち武者狩りに出会って自刀したと伝えられていますが、襲われたのは影武者で、光秀は天台宗総本山の比叡山に身を寄せ仏教の修行に励んだという説です。

   こちらの記事をご参考に・・・
    日光のはじまり:天海大僧正

 敵は本能寺にはいなかった?〜明智光秀の生涯

 たしかに、日光には『明智平』という眺望の美しい名所がありますが、その名付け親は、天海大僧正だといわれているそうです!
 学生時代、『細川ガラシャ夫人』に心ひかれた私にとって、その父君の明智光秀が、天海大僧正として立派に生きながらえたとしたら、とても嬉しいですね

 ちょうど、源義経が兄の源頼朝により追い詰められ、平泉で自害したと言われながら、一方では、実はそれは影武者で、義経自身は従者と共に北に逃げ延びたという『北行伝説』があるのと似ている気がしますが…。

(当時、モンタージュ写真も無い頃に、明智光秀と面識の無い一介の農民が、変装していたであろう明智光秀をどうして討ち取ることができたのでしょうか。はなはだ疑問です。)

 織田信長も、本能寺の変の後、死体が見つからなかったのは何故でしょうか?要人が滞在する場所に、万が一の為の秘密の隠れ部屋やそこから通じる地下通路、追っ手を阻む仕掛けが無いはずは無いと思いますが・・・。本当に大事な主君を守る為なら、ありとあらゆる知恵を使い、万全の防御態勢を準備し、警護に当たるはずだと思います。織田信長は、本能寺の変で死んではいない…と思いますが、…ただの素人のつぶやきです。




松島、瑞巌寺 

 



瑞巌寺の本堂 (国宝)






「松島の さよ 瑞巌寺ほどの 寺もないとえ
  あれはええとこりゃ 大漁だえ〜♪ 」

これは有名な『大漁唄いこみ』こと『斎太郎節』です。
この歌に歌われた寺が、臨済宗妙心寺派の名刹瑞巌寺で、正式名称は松島青龍山瑞巌円福禅寺といい、仙台藩の伊達家の菩提寺です。


 



 









庫裡(くり) (国宝)


 
 










 




五大堂







 


茶屋で旅の疲れを癒す芭蕉さま…!




  「松島や、ああ松島や、松島や…」

『奥の細道』で有名な松尾芭蕉が、そのあまりにも美しい絶景に感動して詠んだ歌とされていますが、実は江戸時代後期に相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊が創ったものだそうです。仙台藩の儒者・桜田欽齊著「松島図誌」に載った田原坊の「松島やさて松島や松島や」の「さて」が「ああ」に変化し、今に伝えられているのだとのことでした。



















福浦島にかかる福浦橋