♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
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比叡山延暦寺(2)  2009
 西塔 
 




『釈迦堂』(転法輪堂)







西塔は本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域です。
東塔から北へ1キロメートルほど、うら淋しい山林の中を歩いたところにあります。12月半ばの冬枯れの山道を、ほとんど観光客のいないなか一人歩くのは、ある程度の歴史を知っている身としては、いささか怖い気持ちもありました。

ここは、第2世天台座主 寂光大師 円澄によって開かれました。本堂は釈迦堂(転法輪堂)です。他に修行のお堂である「にない堂」や伝教大師最澄上人の御廟所である浄土院などがあります。(浄土院は東塔と西塔の中間にあるので、東塔の方にも掲載しました)

「にない堂」は、「法華堂」と「常行堂」の二つのお堂を渡り廊下で結んだ形が、ちょうど天秤棒のようだとうことから名づけられたそうです。言い伝えでは、弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの伝説から、…ともいわれているそうです。







淋しい山道が延々と続く・・・




 
 




『にない堂』渡り廊下

『常行堂』(左)と『法華堂』(右)が 渡り廊下でつながっています。






 
『釈迦牟尼佛』







 

『仏足石』
お釈迦さんが入滅の際に残された足跡を
石に刻んだもの…とありました







『五重照隅塔』
隅を照らす五重塔







傳教大師御遺戒
『我が志を述べよ』


 







 





「叡山随一の水」『弁慶水』
・・・とありました

 




『浄土院』前のこの長い階段を上り
最初の地点『東塔』へと戻ります


 




「浄土院」


お釈迦様の生涯





釈迦伝1 太子誕生





西塔の中心本堂である『釈迦堂』の脇には、お釈迦さまの生涯をわかりやすく描いた美しい絵入りの物語がありましたので、ここに載せます。






 




釈迦伝2 宮殿の生活







釈迦伝3 苦行


 
 




釈迦伝4 降魔


 




釈迦伝5 釈尊の成道


 



 



比叡山と平安遷都


(比叡山の境内に掲げられた説明書きを、そのまま掲載します)


古代から近代に至るまで、歴史の模様をさまざまに変えた人々が登場しては退いて行く。
その舞台の多くは京都であり、比叡山であった。
比叡山延暦寺ともに、日本文化の一つとして生き続けるこの都、京都は延暦13年(794)に、山紫水明の葛野郡の地に開かれた。

比叡山が京都の鬼門に当り、いわゆる鬼門除けに延暦寺が建てられたという話は、古くから言い習わされるところである。鬼の出入りする門の意味で、東北の隅の方を指し、古来からこれを忌避している。平安の頃、この説が定着し、この鬼門を避けるために寺院を建てたということは、延暦寺をもって最初としている。また平安京の予定地を点検した藤原小黒麻呂が上奏の文に、

「この所(京都)は、四神相応(東ー河川の青龍、南ー耕地の朱雀、西ー往還の白虎、北ー山の玄武の神を置く好条件の地)の地なり、しかれども東北に当りて一高岳あり、東北はこれ鬼門なり、たまたま四神相応の霊地なりといえども、百僚怖畏の難なきにあらず、遷都の儀式、よろしく天察あるべし」と述べて、鬼門に山があることを心配して述べている。

これを受けた桓武天皇は、最澄伝教大師をして、この鬼門に比叡山寺の造立の詔を下し、
「仏法は王法を護り、王法は仏法をあがめ、永く天子本命と富国利民の本命の道場を建てて、ひとえに国家鎮護を厳にす」という立場を鮮明にされているのである。

ここに王城の鬼門にあたる比叡山に延暦寺を建てて、都の災いを避けるための、鎮護国家と天子本命道場としての延暦寺の開創を見ることができる。
またそれは、桓武天皇の国造りの理念に沿う伝教大師と比叡山の存在が平安建都を成功させたと伝える。故に平安京は、比叡山を抜きにしては語れない所以である。

桓武天皇と伝教大師の理想は、もとよりこれにとどまらず以後の比叡山は、全国の人材を一堂に集め、仏教教学の一大道場として、多くの仏教的偉人を輩出し、国家の興隆に大きな役割を果たすことになるのである。