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 長崎グラバー邸    January 2010





Thomas Blake Glover
(1838年6月6日 - 1911年12月16日)

スコットランド出身の商人
武器商人として幕末の日本で活躍した
(Wikipediaより)

 






オランダ坂からのグラバー邸入口







グラバー園入口

 












旧三菱ドックハウス








旧三菱ドックハウス








「グラバー邸」
≪国指定重要文化財≫
数多い洋風建築の中で、独特のバンガロー風様式
を残す日本最初の木造洋館として貴重な文化財です。













旧グラバー邸は「住宅」?
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つ
だが…???






グラバー邸







 

晩年、日清、日露戦争の功績により日本政府より
勲二等旭日重光章を外国人として初めて授与
された…とあります。
首元にかかっているのがその勲章です。






 長い鎖国が終わりを告げ、長崎、函館、神奈川の3港は世界に門戸を開きました。同時に諸外国商人は大浦居留地付近に居を構え、貿易を営みます。

その中の一人、英国スコットランド出身のトーマス・グラバーは若干21歳で、1859(安政6年)上海経由で渡来し、ベテランの外商達の中にあって武器船舶などを扱う嵐の商人としての仲間入りをしましたが、やがて彼は自分の信念に基づく立憲君主制国家としての日本再建に外商としての立場を超越した活躍を見せ始めました。
それには日本の若いエリート達に国際的な目を開かせることが先決だとして伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋しています。こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは、彼の努力に負うところが少なくありません。

彼が期するところの立憲君主制の平和国家として日本が再出発することになるや、次に彼は産業立国の大方針をもって政府に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓しました。
1865(慶応元年)、大浦海岸に我が国初の蒸気機関車を走らせ、1868(明治元年)高島炭鉱を開発、また同年海国日本の前途を計って小菅に修船場を設けたりと、日本の新世紀にエネルギー溢れる協力をしました。

この家には、息子倉場富三郎、娘ハナ、妻おツルと共に住んでいましたグラバーは英国人として日本維新に大いに貢献した忘れることのできない人物です。

         長崎市



グラバーの人生の伴侶:淡路屋ツル
ツル夫人はどこの人?
(異聞)




グラバー一族」

(後列)長男富三郎、次男アルフレッド、グラバー、
(前列)二女マーサ、長女ハナ、富三郎の妻ワカ






グラバーの妻、ツル


 










豪華なダイニングルーム








グラバーと富三郎は共に花を愛し、折に触れて
花を贈り合う父子であったという。







グラバーの長女ハナの結婚式


















フリメーソンの紋章が刻まれている門柱
(グラバー園内)

グラバーの仕事仲間でもあった
リンガーの邸宅横にあります。
リンガーは、「グラバー商会」に勤務していました。






フリーメーソンのマークで、メーソン(石工)が
使ったコンパスと定規を組み合わせたものが
刻まれています。

このフリーメイソン石柱の移設前の住所
「松ヶ枝町」は、グラバー園からほんの数分
坂を下った海岸沿いのエリアで、
あたり一帯は、外国人居住地でした。
その隣接地域にグラバー邸はあったのです。

『長崎異人館ストーリー』
外国人居住地の歴史と状況が…
松が枝から大浦天主堂へと続く坂の途中に
ウォーカー邸があった事などが書かれています。

松ヶ枝、大浦海岸通の洋館&リンガー
当時の海外とのビジネス交流が
いきいきと描写されています。
そしてその国際交流の中心地だった事がわかります


旧リンガー住宅と戦争




 

「門柱前に掲げられた案内版」
長崎市 作製





      フリーメーソン・ロッジの石柱

この門は、松が枝町47(旧小曾根町海岸通り47番)の住宅出入り口の門です。柱頭の彫刻は、フリーメーソンのマークで石工(メーソン)の使ったコンパスと定規を組み合わせたものです。

使用された石材が開港初期に居住地で盛んに使われた天草石であり、1865年(慶応元年)頃、47番の借地人がイギリス人であったことから、当時イギリスから渡来したフリーメーソンの人々が最初に定着したこの地に彼らのロッジのシンボルとしてマークを掲げたのもと思われます。

 (注)フリーメーソンとは、中世ヨーロッパの石工の職業団体に始まり、それを母体に18世紀初めイギリスで結成され、啓蒙主義精神のもとに博愛・自由・平等の実現を目指す世界的規模の団体です。

          長崎市


その外国人居住地の広がる松ヶ枝町周辺の
海岸通りの工事にあたり、
その中にあったこの石碑を、丘の上にある
グラバー園内に移設したとのことです。
全く関係の無い遠方から持ってきたのでは
ないのです。

「外国人居留地:松ヶ枝町(下り松)」
「幕末から明治期の長崎居留地には、
数多くの洋風建造物が建ち並んでいました。
…下り松(現、松が枝町)の海岸地には造船所や
入港中の船員が集うバーなどがあり、…」









坂本龍馬の等身大の写真




ユダヤ人商人:ジーグムンド・レスナーの
旧邸宅について









岩崎弥太郎
天保5年12月11日(1835年1月9日)
〜 明治18年(1885年)2月7日)

日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。
明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物

貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバーと取引し、
維新後グラバーは三菱に雇われた。
坂本龍馬が脱藩の罪を許されて、亀山社中が
海援隊として土佐藩の外郭機関となると、
藩命を受け隊の残務整理を担当した。
(Wikipedia)






リンガー
Frederick Ringer
1838年?月?日 〜 1907年11月29日

幕末から明治にかけて、長崎で活動した
英国人の貿易商。
若くして英国・ノリッチから東アジアへ渡り、
1865年から茶の貿易の監督官として
長崎でグラバー商会に勤務。







オルト
William John Alt
1840(天保11)年〜1905(明治38)年

開国とともにいち早く長崎に渡り、オルト商会を設立。
長崎の大浦慶と提携し、九州一円から茶を買い求め、
輸出業を行なった。オルトは、製茶・販売の事業で
大浦慶と手を組み、製茶業で巨額の利益を得た。









グラバー園のなかにある「旧オルト邸」

 

 

  三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎は、坂本龍馬亡き後、海援隊を引き継ぎました。
 グラバーの2年後に来日した、グラバーに匹敵する貿易商人だったといわれるオルトは、「オルト商会」をたちあげ、長崎商人、大浦お慶と提携し、日本茶の輸出事業で巨額の富を得たと言われます。
その邸宅は、訪れた人々を陶酔させるほど豪華な佇まいで、日本最初の洋風石造り建物といわれます。その邸宅の門の脇には、日本一といわれるモッコウバラ(木香薔薇)の大木があります。一度、そのモッコウバラの咲き乱れる頃に訪れてみたいものです。







木香バラ








オルト邸正面玄関の両脇に、
日本一と言われる木香バラ(モッコウバラ)
の見事なパーゴラがあります。

 




クリーム・イエローの美しい花



 




木香バラ (原種バラの1種)




明治維新の立役者、坂本龍馬とのかかわりなど、
様々な話題にことかかない、魅力あるこの地ですが、
いろいろと異説などに事欠かないようですね。
是非、自分の目で確かめて欲しいと思います

グラバー園公式ウェブサイト

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南山手秘話(EPISODE) INTRODUCTION

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