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天竜寺  2009



天竜寺は、嵐山の近く、洛西大堰川(おおいがわ)の北に位置した臨済宗天竜寺派の大本山で、京都五山の第一位とされています。

この天竜寺は、暦応2年(1339)に吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏によって創建され、夢窓疎石(国師)を開山(初代住職)としました。後醍醐天皇が幼少期を過ごした亀山殿の地に建てられています。

後醍醐天皇は「建武の新政」を始め、足利尊氏はそれに反旗をひるがえした人物です。そして後醍醐天皇は足利討伐の命を出しました。
すなわち、この寺は南北朝動乱における「政敵=かたき同士」である後醍醐天皇と足利尊氏の「怨を解消する」という夢窓国師の進言により建立されたとでもいえるでしょうか。そしてその費用をまかなうために元に天竜寺船を派遣しました。夢想疎石はまた、戦没者を弔うために、尊氏に働きかけて全国に安国寺や利生塔を建立させています。

苔寺として知られる「西芳寺」の『枯山水』様式も、この夢窓国師が造成しました。
そしてここ天竜寺の「曹源池庭園」もまた、同様の『枯滝石組』をもつものとなっています。これらは、、平安時代を風靡した『浄土庭園』とは一線を画するもので、禅思想の象徴であり、国師のめざした理想郷が凝縮されているようです。

ここもまた1994年に『古都京都の文化財』という名称で、ユネスコの世界文化遺産として登録された寺院の一つです。










天竜寺『庫裏』






 




『多宝殿』



 




『平和観音』と『愛の泉』



 


夢窓疎石は建治元年(1275)伊勢に生まれ、9歳で出家し、18歳の時、東大寺戒壇院で受戒し真言僧となりました。しかしその教えにあきたらずその後、禅への興味を抱くようになります。ある日、中国の禅僧・山光仁(そざんこうにん)と頭希遷(せきとうきせん)に逢う夢を見た夢窓は2人の禅僧の名から一字づつもらい、名前を疎石と改めました。また夢の縁から夢窓と号したといわれます。そして鎌倉、美濃を経て京都から、四国、中部、東海、関東、東北の各地を目覚ましく巡歴します。

その後、後醍醐天皇より「夢窓正覚国師」の号をたまわり、一般に「夢窓国師」と呼ばれています。
夢窓、正覚、心宗など、生前と没後あわせて七人の天皇(院)から国師の号を授けられたことから、「七朝帝師(七朝国師)」と称され、尊崇されました。
76歳で入寂(死去)の時点では、一万人以上の門人がいたと言われています。

時代は鎌倉時代末期から、南北朝時代、室町時代初期にかけての動乱期。
とりわけ鎌倉幕府の崩壊は、今でいえば、ソ連やベルリンの壁崩壊にも匹敵するほどの動揺を当時の人々に与えたことでしょう。そうした不穏な世相の中で、国師の果たした役割はとても大きいものだったに違いありません。国師の助言は仏道のみならず政治経済にも関与する結果となり、敵対しあう天皇、足利氏にも多くの示唆を与えていたようです。

その後に続く南北朝の動乱期にも、その和平に尽力したことにより、いつの間にか人々は『平和観音』と称するようになったと記されています。







 




『小方丈』





『大方丈』と『曹源池庭園』




 




渡り廊下

 




曹源池の出島





          『龍門の滝』

 中国の故事に、「中国黄河の急流にある3段の滝を登りきった鯉が龍になる」という有名なお話があります。日本語の『登竜門』の語源になった故事ですが、これはそのことにあやかってつくられた滝石組です。これはまた、悟りの境地へ至る禅の修行を造形化したものでもあると言われます。

『苦労し、努力しなさい。
そうすれば難関を突破し、
悟りの境地に至れるのですよ』

…というメッセージなのですね。

その石組の中段には龍に化す鯉をあらわした「鯉魚石」を配し、上段に深山をあらわす立石の「遠山石」を、下段には「水落石」が配されています。
通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中(寸前)の姿を現す珍しい姿なのだそうです。




 




『龍門瀑』の石組




『鯉魚石』

 






ふすま絵の『雲龍図』 
(中庭が反射して…)

 






『達磨大師』の掛け軸



 


















『雲龍図』天井絵
別名=八方にらみの龍
どこから見ても自分をにらんでいるように見えるとのこと







 
嵐山散歩
 







 







 





 







 



嵐山オルゴール美術館
アンティークなフレンチスタイルが古都に妙にマッチして・・・


 




嵐山『渡月橋』のほとり