♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
花と光と風と…
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善通寺  2009
 東院 (創建地)
 




南大門 『五岳山』
『屏風浦五岳山誕生院』とあります





巨大な楠木(くすのき)











 善通寺 (ぜんつうじ)は、空海(弘法大師)のご生誕地である香川県の善通寺市にある寺院です。
正式には真言宗善通寺派総本山で、『屏風浦五岳山誕生院』といいます。
本尊は薬師如来で、四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所とされます。
伽藍は創建地である東院と、空海生誕地とされる西院(御誕生院)に分かれています。
この善通寺は、平安時代初頭の807年に、父であるその佐伯善通を開基として創建されました。
しかしながら、それ以前からその佐伯家の氏寺として存続していたようです。

空海は、ここ四国では「お大師さん」と親しみを持って呼ばれることが多いようです。そして四国遍路では「同行二人」として、「弘法大師空海と一緒」という独自の文化が形作られています。実際、今も空海は生きて、皆の生活の中で共に歩んでいるという感覚があるような気がしました。
なお『弘法大師』という名は、空海入滅後(死後)、86年後に、醍醐天皇から贈られた称号です。

その空海(お大師さま)は、774年に、この地方の豪族である佐伯直田公(さえき・あたえたぎみ)・善通卿と、玉寄御前(たまよりごぜん)の三男として生まれました。幼名を真魚(まお)と言います。
そして十五歳にして長岡京に上ります。
その3年後、京の大学の明経科に学び、官人コースを順調に歩んでいたものの、やがて壮烈な修道へと進むことになります。儒学では物足りず、学友たちの俗世ぶりにも幻滅し、己の求める道を探し始めたのでしょう。

一人の修行者から「虚空蔵菩薩求聞持法」を授けられ、深遠な密教経典の教えに触れてからは、私度僧となります。そして山野を駆け巡り、苦行・荒行を重ね、密教世界の神秘的な霊力を体得していきます。

自らを「空海」としたのは、室戸岬の御厨人窟(みくろど)で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできて、このとき空海は悟りを開いたといわれています。当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、「空海」と名乗ったという伝承があります。

近年、その空海と、かのレオナルド・ダ・ヴィンチとの相似性が時折、話題となっていますが、個人的には面白い比較だと思っています。
時期的にみると、空海の没後、約600年後の人物ということになりますが・・・。



               



  
 804年、大陸の進んだ仏教を学ぶため、まだ無名であった空海は遣唐使の一人として唐に渡りました。
長安では、恵果和尚(けいかおしょう)との出会いが大きかったといわれます。恵果和尚はインドから来た不空三蔵の高弟で、密教の頂点に立っていた人物です。
空海は、その恵果 と運命的な出会いを果たし、その全ての教えをわずか2年で習得しました。
そして真言密教の本流が空海によって日本に伝播されたのです。
恵果和尚は密教の法灯を空海に託し入寂(死去)しました。弘法大師空海は石碑を建てて、その徳を刻みます。

 (も)しくは尊、若(も)しくは卑、
 虚しく往きて実ちて帰る。
 近きより、遠きより、
 
光を尋ねて集会す。

これが『恵果和尚碑』の一文です。
恵果和尚の名声に、身分も家柄も問わず、誰もが何も持たずにやって来て、大きな実りを持って帰っていくという意味です。
弘法大師空海のもとへ集まる人々も同様でしょう。
四国八十八ヶ所霊場も全国に伝わり、「新四国」の霊場は数百を数えるほどだとのことです。弘法大師伝説などもかなりの数にのぼります。
岩手の盛岡の小岩井農場近郊に、「弘法桜」という老木があります。伝説では、全国行脚した弘法大師がそこに立ち寄り、持っていた杖を地面に突き刺したところ、その杖から枝が伸び、花が咲いたということで、その老木は今も、地元民のケアで見事な花を咲かせています。         





 
 




大師の修行像







鐘楼






 

五重塔







 











赤子を抱くお大師さま









寺務所の壁に貼ってありました
なるほど・・・深いです









本尊 薬師如来













釈迦堂(勅願常行堂)








西院 (御誕生院))






仁王門







仁王門 『遍照金剛閣』

 





回廊に掲げられた空海の生涯絵図の一つ



 




回廊

 




巨大な藁草履(わらぞうり)



 




御影堂(大師堂)



 


 


 満濃池
 










満々と水をたたえた満濃池


 


 空海のふるさと四国の讃岐地方は日本有数の溜池(ためいけ)地帯です。
瀬戸内は温暖ですが降水量の少なさは致命的で、農業を主体とする地域には溜池を多く作る必要があります。
そんな讃岐にある日本最大の溜池が「満濃池」(まんのういけ)です。
その大きさは、写真でもお分かりのように、池というよりは、まさに大きな湖です。

 いつこの溜池が作られたかははっきりしたことはわかりませんが、この満濃池はふもとの集落にかけがえのない農業用水を供給する一方で自然の凶暴な力を剥きだして、たびたび決壊してふもとの人々に多大な被害を与えていました。

 記録では、818年に大規模な決壊による災害が発生しており、国司は改修工事に乗り出しましたが、工事のめどが立ちません。
「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」(人々が空海を実の父母のように慕っております)と当時の讃岐の国司は請願書を空海に送りました。
 その当時空海は京都にいて、真言密教思想の集大成を計っていた時期でしたが、讃岐国司のこの請願書を見て土木工事の指揮をとる事を決断したと言われています。

 そして、822年6月に空海は「築池使」として讃岐にやってきましたが、そのわずか3ヵ月後の9月には帰京しています。
これほどの大工事をたった3ヶ月ほどで成し遂げたということは、現代の土木工事を考え合わせても、ものすごい大事業だったらしいということです。
空海の指導力、そして讃岐の人々の空海を慕う気持がこの大修築を短期間に終わらせた原動力となったのでしょうか。
                      




 




元祖 「しょうゆうどん」









 




酢だちを絞り、大きな大根を好きなだけおろして
薬味、お醤油をかけて…