♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
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ノーモア・ナガサキ  January 2010





『平和祈念像』










 
           
平和祈念像

  
この平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多く の同胞市民を失い、筆舌に尽くしえない悲惨苦に当面した 長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴え、この惨禍 を再現せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久 平和のシンボルとして昭和30年8月の原爆10周年記念日に 建立されたものであります。
  平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財 によって、彫刻界の権威、北村西望氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿であり頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または 「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っている姿であります。
  なお、折り曲げた右足は瞑想すなわち静、立った左足は救済すなわち動、何れも神仏の特性を表現したものであり、 本像はその規模において、またその思想において、この種の彫刻としては世界にもその類を見ない雄大な芸術作品であります。
 
  長崎市

                            



 
長崎原爆の日(長崎原爆忌)1945年8月9日午前11時ごろ、米軍のB29爆撃機がプルトニウム原爆を投下し、長崎市上空で爆発。約7万4千人の市民が死亡し、約7万5千人が重軽傷を負いました。

                            






「長崎の鐘」
直撃を受けた少年工員たちへの哀悼の碑






14歳で被爆した早崎さん
今も元気で、「原爆の語り部」として、当時の悲惨な
状況を語り伝えています。

   『 爆心地より1.1キロメートルで被爆。
三菱兵器製作所大橋工場に勤務中に被爆し、
背にした厚い鉄筋コンクリートの柱が生死を分けた。
柱が熱線と爆風を遮る壁となり、軽症で済んだのは
奇跡的だった。
      重機はすべて建物の外に吹き飛ばされ、
指示した上司は即死。
32人中私を含めて2人だけが生き残った。
原爆の怖さと平和の大切さを伝えたい。』

・・その一念で、毎日訪れる人々に当時の被爆者の
様子を描いた自作の絵を見せながら、
生命や平和の尊さを説いています。






「和平」
贈 中華人民共和国



















「浦上天主堂教会」







「信仰の碑」






原爆直後に撮られた破壊された教会跡
当時教会にいた主祭神父と20名の信者が犠牲になり、
浦上カトリック信者全体では8500人の尊い命が
失われました。







教会の前面には今も被爆し破壊されたキリスト像や
聖人の像が配置され、当時の激しい破壊の様を
伝えています。
『被爆マリア像』も安置されています






 



        「長崎の鐘」
                
     こよなく晴れた 青空を
     悲しと思う せつなさよ
     うねりの波の 人の世に
     はかなく生きる 野の花よ
     なぐさめ はげまし 長崎の
     ああ 長崎の鐘が鳴る

 …毎年、終戦記念日の頃になるとどこからともなく響いてくるこの歌を、なんとなく口ずさみながら 「こよなく晴れた青空」を悲しいと感じるというその切ない心情を思ってみました。

その作者は、地元長崎の放射線科医師であった永井博士。仕事上のレントゲン被爆からすでに白血病であった博士は、原爆で妻を失い、本人も被爆で重傷を負います。そして二畳の小さな『如己堂』で寝たきりとなりながら『長崎の鐘』や『この子をのこして』など、43歳で亡くなるまで執筆を続けました。

初めて訪れた長崎は思ったよりも小さな町でした。
広島への原爆投下の3日後に同様に被爆した街でありながら、かたや1996年に「世界遺産」として登録を受け、長崎はいまだその申請の最中です。

しかしながら、長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」はプルトニウム原爆で、その規模は広島に投下されたウラン原爆「リトルボーイ」の1.5倍の威力だったそうです。

豊臣秀吉時代の『26聖人の殉教跡』にみられるように、隠れキリシタンの激しい迫害の痕跡も残っており、様々な時代の痛みを感じました。それでも、それらを運命として受け止めつつ生きる長崎の人々の芯の強さのようなものを垣間見たような一日でした。

 
 
 




『平和の泉』

水を求めてやまなかった被災者達への
冥福のために設計された平和の泉





母と子の像1
贈 ソビエト連邦社会主義共和国






母と子の像2
贈 チェコスロバキア





2010年8月9日、長崎で被爆第65周年にあたる「平和の祭典」が催されました。

菅首相を始め、各国の政府関係者も過去最多の32カ国から出席し、うち15カ国は初参加でした。
また核保有国のイギリス、フランス、核保有が確実なイスラエルも初めて参列しました。しかしながら今回はアメリカ政府側からの参列者はありませんでした。

「長崎平和宣言」で長崎市長は、今年5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議で、核軍縮交渉などの期限設定を、核保有している5大国が退けたことを強く批判し、
 「核保有国の指導者の皆さん、
  『核兵器のない世界』への努力を
  踏みにじらないでください」
…と全世界に訴えました。

核保有国とは、「核拡散防止条約 (NPT) 」で核兵器保有の資格を国際的に認められた国で、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5か国のことです。それ以外、すなわちNPT非批准の核保有国は、インド、パキスタン、北朝鮮の3か国です。
他に、核保有が確実視されている国にはイスラエルがあり、核保有または核開発の疑惑国にはイラン、シリア、ミャンマーなどがあります。
(Wikipedia参照)

田上市長は「核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて世界は核拡散の危機に直面する」と指摘し、5日に長崎を初訪問した潘基文(バンキムン)・国連事務総長が国連加盟国に呼びかける「核兵器禁止条約」への強い支持を表明し、核兵器廃絶への決意をアピールしました。(毎日新聞jpより)

またスピーチの中で菅首相は、
「非核三原則の法制化を検討する」と語りましたが、その『非核三原則』とは、「日本の国是」であり、「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」
という三つの原則のことです。
この非核三原則を示したことによって、1974年に佐藤栄作元首相がノーベル平和賞を受賞しました。

しかしながら戦後65年を迎える中で、沖縄に核兵器が持ち込まれていた事実がわかり、『核の密約』の存在が露呈されたり、『核の傘』という『核の抑止力』の必要性が語られる不穏な国際情勢を思うにつけ、過去の歴史の教訓に学ぶどころか、愚かな選択の可能性を示唆しているような気がいたしますが…。

幾多の争いや憎しみを越えて、「平和」を選びとる『心の英知』を個々人が、そして国々が持つことを願ってやみません。

 






永井博士の終の住処 

『如己堂』
聖書「己の如く 人を愛せよ」から







二畳一間の小さな小さな住まいです






「 玉の緒の命の限り
吾はゆく  寂(さぶし)かなる
真理探究の道 」
永井隆