♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
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 中尊寺 金色堂  2011



 これまで数回訪れたことのある平泉でしたが、世界遺産に正式登録されてからは初めてでした。
 東日本大震災という未曾有の大災害から三ヶ月後。とりわけ被害の甚大だった福島、宮城、岩手のほぼ真ん中に位置しているこの「平泉が世界遺産に登録された」という朗報は、震災復興の象徴として期待されているような気もしました。

 中尊寺は850年、慈覚大師円仁が平泉の地に礎を築き、その上に、初代の藤原清衡が、40を超える諸堂を配して、壮麗な金色堂、経堂を中心とした黄金文化を築きました。その背景には、40年に及ぶ戦乱で亡くなった無数の人々の御霊を救おうとの願いが込められていると言われます。そして、それは、敵味方を問わず、生きとし生けるもの全ての供養と成仏への誓いだったと言われます。

 奥州藤原氏初代の清衡、二代目の基衡、三代目の秀衡が治めた約100年の間、この道の奥(みちのおく=奥州)には「浄土思想」を中心にしたかつてない平安な時代が訪れました。しかし四代目の泰衡の時代に、その終焉を迎えます。
その泰衡の時、源義経をかくまったことでその兄、頼朝の逆鱗に触れ、中尊寺をはじめ平泉の地は徹底的に焼き払われました。さらに、その後の度重なる火災によって大半は消失しましたが、奇跡的に金色堂と経堂だけは残り、今にその姿を伝えています。

『中尊寺供養願文』に表されているように、古代から平安にかけて常に災禍に見舞われてきた東北の無数の御霊の救済を誓って建立された中尊寺が、今再び、東日本大震災からの復興の原動力になろうとしているのかもしれません。

この金色堂に感嘆した芭蕉は、

 「五月雨の 
    降り残してや  光堂」


  …と詠みました。

 





中尊寺山門















中尊寺入口から月見坂を登って…








弁慶堂の中の弁慶と義経像








山道の途中にある根のつながった4本杉
いつも通るたび、藤原四代を想います…
















金色堂

階段の上に見えるのは覆堂で、その中に
黄金に輝く金色堂が安置されています






素敵なコントラスト…








中尊寺境内








中尊寺







弁慶堂





 


紅葉の見頃にはまだ早く…








松尾芭蕉さま…








「ホット義経ロマンコーヒー」
疲れが癒されました〜!






泰衡の首桶から発見された蓮の種100粒。
水につけたところ生命を吹き返し、今から10年余り前に遂に開花しました。
和ハスの一種で『中尊寺ハス』と名付けられ、中尊寺境内の蓮池で見事に繁殖し、7〜8月には咲いている姿を見ることが出来ます。

この泰衡の桶に蓮の種を入れた人物には様々な説があるようですが、この話を聞いた時、何故かエジプトのツタンカーメンの墓に捧げられていたという矢車ギクの花が浮かんできました。若くして亡くなった王のために、その妻、アンケセナーメンが供えたという青紫色の花束です。
真偽はともかくとして、愛する人を偲び、その供養の為に、種(再生を意味?)を入れた人の気持ちを想ってみました。

(ハスは仏教では、極楽浄土を象徴します。
死後に極楽で往生することを願った。
そして、桶に入れたときは受粉したばかりの花だったけれど、その後、桶の中で種が熟して残った…などと考えましたが…。)









 

中尊寺ハス

(毛越寺内の写真を撮しました)


高館 義経堂
 







 


三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし固め、蝦夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。


国破れて山河あり、
  城春にして草青みたりと、
かさうち敷きて時の移るまで
  涙を落としはべりぬ。


夏草や兵どもが夢の跡

 芭蕉


 



北上川の向こうには束稲山
絶景です…



 




高館義経堂






 

     伝説 義経北行コース

悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治5年(1189年)4月、平泉の高館において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い、『義経はその一年前に、ひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た』という伝説を作り上げたのである。
 世に言う『判官びいき』であろう。
その伝説では、『文治5年にこの館で自刃したのは、義経の影武者である杉目太郎行信であって、義経はその一年前に弁慶らを伴い、館を出て、束稲山を越え長い北への旅に出たのである』と伝えられている。

(観光案内板より)






 義経の「北行伝説」は信じる人、否定する人、様々ですが、私は勿論、信じています。
否定する人の中には、モンゴルに渡ってチンギス・ハーンになったという説と絡めて、とんでもないとするようですが、本来の北行伝説は義経の主従が兄頼朝の追っ手を逃れて岩手の北上山地や沿岸を通り、蝦夷地(北海道)へ渡ったとするものです。実際に岩手から青森へつながる多くの場所に、その足取りを示すように、「判官神社」などが点々と存在してその足跡を今に伝えています。

頼朝が藤原家四代目の泰衡に迫った「義経の引渡し」か「平泉の存亡」かの二者択一により、苦境に立たされた泰衡の為、義経が潔く「北行」を決意したのでは…。そして、その無事を確保するために最善の準備をしたのはやはり泰衡だったのでは、と思います。

(現代人の私たちが思う以上に、当時「影武者」は活躍したのだと思います。「大阪の陣」の秀頼しかりで…。歴史上の人物で、闘いに敗れ、自刃したとされる人々が、その後に生きながらえたという話は沢山あります。
…そして、歴史は「勝者によって書き変えられるもの」「時の権力者の都合によって編纂されるもの」だからです。

父秀衡の「義経を守り、大将軍にたてよ」という遺言に反して、義経を自害に追い込み悪者とされた泰衡の真意は本当はこうであったと、900年の時を越えて再生し開花した「中尊寺ハス」は、そう語りかけている…そんな気がします。

事実、その義経が自刃したとされた時に、身代わりとして自害した人物は、「杉目太郎」という名で、その人物とその家族達が共に囲むようにまつられているお墓が、この「高舘義経堂」の近くにありました。義経の自刃の証拠としてそのクビが、炎天下の中、かなりの日数を経て、兄頼朝のもとに届けられた後、その影武者となった人物の家族もまたその死を悼んで、共に果てたということでした。
それが、手配写真も、モンタージュ写真もなかった時代に普通に行われていたのでしょう。




 
 




JR平泉駅







義経の「北行伝説」に関する
面白いHPを見つけました。

義経北行伝説 (現地の写真掲載)

北海道の義経伝説

義経北行伝説とは