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義経神社 in 平取 September  2012
 





秋の義経神社 (ポスターから)


















冬の義経神社 (ポスターから)













 


 源義経の「北行伝説」は、昔からよく耳にしてきました。歴史書によれば義経は、兄の頼朝から責め立てられた藤原泰衡によって平泉の近く衣川の関にて31歳の生涯を閉じたことになっています。しかしながら、その類まれなる歴史的ヒーローを、そう簡単に諦められない熱烈な支持者によって、様々な伝説が生まれます。亡くなったのは実は影武者であり、本物の義経は、従者を従えて、北へ北へと逃れ、蝦夷地へと渡り、そしてついには、大陸へと渡ってチンギス・ハーンとなったという伝説まで生まれました。そこまで行くと私の想像できる範疇をはるかに超えてしまいますが、岩手~青森~蝦夷地の線はかなり可能性ありと見ています。私自身も、岩手から青森の沿岸地域に残るその足跡の地を訪れたことがあります。

 義経生存説を匂わせる記述を最初に書いたのは、『吾妻鏡』だと言われています。『吾妻鏡』によると衣川の乱の約1年後の1190年5月頃、、鎌倉に「義経軍が攻めてくる」という噂が流れ、鎌倉に緊張が走ったことが書かれています。このことは、義経は「生きているかも知れない」という懸念が鎌倉武士の中に、すでにあったことを示していると見られます。『吾妻鏡』は、約90年間の鎌倉幕府を記録した歴史書で、歴史家からは、一級の歴史資料と認められています。

 江戸時代の1644年、徳川家光が林羅山に編纂を命じた続『本朝通鑑』には、文献上始めて、義経が死んでいなかったという記述がでてきます。、「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」(義経衣川で死せず、逃れて蝦夷島に至り、その種存す)と記されているそうです。

 江戸中期の学者であり政治家でもあった新井白石は、アイヌ伝説の中にある、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者サマイクルに関する伝承を、義経と弁慶に同定する説として『読史余論』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰にある「ホンカン様」信仰は、義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしています。(義経の正式名は「九郎判官義経」)

 1688年、徳川光圀は、『大日本史』編纂のため、海風丸を北海道に派遣して義経伝説の真偽を確かめています。調査団は、北海道には義経・弁慶に関係ある地名が多いこと、義経が「オキクルミ」(農耕・狩猟の神)として崇拝されていることを報告しています。
その『大日本史』の義経列伝の中には、「世に伝う、義経、衣川の館に死せず、遁れて蝦夷に至る。」とあります。
 そして、その「義経生存説」の根拠として、平泉での義経自害後の首実検について、さらに「相距ること四十三日、天時に暑熱、函して酒に浸すといえども、いずくんぞ壊乱腐敗せざるを得んや。たれか能くその真偽を弁ぜんや。然れば則ち義経偽り死して遁れ去りしか。今に至るまで夷人義経を崇奉し、祀りて之を神とす。けだし或いはその故あるなり。」とあります。

 また江戸末期に樺太を探検した間宮林蔵は、その探検の目的の一つが、義経の北行伝説の真偽を確認するためであったと言われています。そしてその間宮と親交のあったシーボルトは、その間宮の報告を受けて、その著『日本』で、義経・ジンギスカン説を主張しています。

 明治11年に平取を訪ねた英国人女性紀行作家イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むと,当時のアイヌは,義経を自分たちの民族の偉大な英雄としてうやうやしく祀っていたと書かれています。

・・・他にもいろいろあるようですが、これだけの歴史的人物たちがその歴史書などで、衣川における「義経自害説」に疑問を呈し、蝦夷地に渡った可能性を示唆しているのは面白いと思いました。
 







静御前と、母常磐御前の石碑




 







義経神社の境内











        平取と義経

 義経公はアイヌ民族をこよなく愛し、狩猟による民族であるアイヌの人たちに、アワ・ヒエの耕作や舟の造り方、操り方、はた織り、若者に武術を伝授するなどして、当時のアイヌの人々から神のように敬われておりました。

 その後、若者を引き連れ、大陸に渡ったと伝えられており、この地を去る時には、この風光明媚の高台に、甲冑、弓矢を祀って武運長久を祈願し、これを形見として残し立ち去ったと言われ、これを祀った地をハヨピラ(武具を祀った崖)と呼び、神の聖地として伝えられております。

 その後義経神社は、遍座すること三度、現在の社殿は昭和36年に造営し、北辺の鎮護として勧進されております。

 義経公による戦いの多くが騎馬によるものだった故事にちなみ、毎年2月初午祭が行われ、競走馬の勝利、安全を祈願します。義経神社大祭、京都鞍馬寺義経忌、蒙古のオボ大祭(ジンギスカン祭)は毎年8月15日に執り行われています。

        義経資料館








きれいに清掃のゆき届いた境内
ゆったりした心地よい空気が漲っていました









義経資料館
驚くほど詳細な歴史資料が詰まっています




 




義経神社参道




 




弁慶池







      
     義経にまつわる伝説の多いわけ

 歴史上、義経は藤原泰衡の夜襲を受け、衣川の高舘で自害したと言われています。
 しかし、数奇な運命を辿り、歴史に残る部分においても謎の多い伝説に満ちあふれた人物である義経をそう簡単には死なせたくないという民衆の気持ちや、理想の支配者像を義経に求めた東北の武士たち、そして鎌倉幕府を倒すために義経が再び戻ってくることを願った京都の公卿たちが、義経生存逃亡説を生み、英雄となった義経は、各地で様々なエピソードを残し、大陸にも渡ったと言われているのです。

             義経資料館より









全国に点在する義経の足跡100選

100枚の青いタイルの一枚一枚に、
それぞれの場所にまつわる義経の伝説が
書かれています。









北東北の北行伝説






1が平取:義経神社


 


      
 2.船魂神社

 三厩から蝦夷に渡った義経一行が、第一歩を印したという伝説地です。境内には、義経が弓で突き湧き出させたという清水があります。
一行はここから松前に向かったと言われています。

       北海道函館市船見町    








 


      
 1.義経神社

  アイヌ首長ペンリウクらが義経像を祀ったのが始まりで、ハンガンカムイ(源九郎判官義経公)は祖神オキクルミカムイの再現であるとアイヌの人々は尊崇していました。御神体の義経像は、近藤重蔵の寄進によるもので、現在の社殿は、原始林の御神木が生い茂る鎮守の森の中に鎮座し、氏子を加護しています。

       北海道沙流郡平取町    







      
 6.弁慶岬

  奥州から逃れてきた義経一行は、寿都に滞在しました。弁慶はあとから来ることになっている援軍を待つために、来る日も来る日も岬の先端に立ちました。しかし、ついに援軍はきませんでした。いつしかこの岬は、弁慶岬と呼ばれるようになりました。

      北海道寿都郡寿都町





 

      
 3.渡海山阿吽寺

 無事渡海し、上陸したのは松前だと言われます。その時入ったのが『阿吽寺』で山号はそれにちなむと言われています。
 これを記念して義経は千体の阿弥陀仏を彫り、後方の山に収めたと言われています。

      北海道松前郡松前町







 



      
 9.龍馬山義経寺

  義経の念持仏(正観世音菩薩)を本尊とする寺です。寛文の頃、この地を訪れた円空は、白銀の小さな観音像を発見しました。その夜、霊夢によって仏像の由来を知り、尊像を祀ったのが義経寺のはじまりと言われています。

     青森県東津軽郡三厩郡三厩








 



      
  7.雷電岬

  義経がこの岬を越える時、来年くると言い渡したと言われます。その来年が雷電と変わり雷電岬と呼ばれるようになりました。雷電海岸の刀掛岩は、弁慶が腰の刀をはずして座ったところと言われています。

      北海道岩内郡岩内町







 


      
  義経洞窟

  平取に着いた義経主従は、ここに砦を築き10人あまりの家来と約2年余りを過ごしたという。その間に里に降りて、稗(ひえ)・粟(あわ)などの耕作を教えた。
 洞窟からは、鎌倉時代のものと思われる、刀や鎧、兜も見つかっており、義経公が使った枕石もある。
 
      沙流郡平取町






 




義経洞窟

 





判官舘(大岩壁)


 



      
 判官館(大岩壁)

  新冠川が海に注ぐ河口に判官館と呼ばれている大岩壁がある。
 義経公は、この大岩壁に砦を築いたならば平地に築いた砦よりも、遥かに素晴らしい砦ができると考え、早速築き上げた。義経公はここで鎌倉の兄頼朝を倒すため兵を整えようとしたが、果たせずこの地を後にする。
 アイヌの人々はこの岩壁を判官館と呼び、義経公を偲んだという。

         新冠郡新冠町







 





 


(続く・・・)