花と光と風と…
 Index
函館元町地区 & 咬菜園      2016








現在の「咬菜園」、今は私有地です



『はこだて歴史散歩』(道新)より
「咬菜園」 (昭和時代)

すでに全盛期の面影はありませんが・・・



 


        「咬菜園跡」

 「安政4年(1857年)名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪(約3770㎡)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植したので四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園として親しんだ。
 咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者、武田斐三郎が名付親である。

 明治2年(1869年)箱館戦争時、追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した榎本軍(旧幕府脱走軍)総裁榎本武揚は同年3月14日幹部6人と共に、今宵最後と一夜の清遊をこの咬菜園で試みた。

 箱館奉行並中島三郎助は、俳人としても知られ、数多くの秀作があるが、

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」、 

「われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹」


の辞世の句などはこの時残したものである。
 同年5月16日、三郎助は五稜郭の前線基地千代ケ岡陣屋(現中島町)で最後まで降伏を拒み、長男恒太郎(22歳)次男英次郎(19歳)ともども壮烈な戦死を遂げた。」
        (函館市 案内書より)




やや急峻な「弥生坂」を登って行くと、
その左手に、「咬菜園跡」という看板が見えてきました。

当時は「函館第一の名園」と詠われたという
この地も、その後、私有地となり、
今は、入り口から垣間見ることが
できるのみです。

当時は3000坪ほどもある庭園があり、
四季の花々が咲き乱れ、
料亭と旅館のような3階建ての立派な建物
が建っていたとのこと。







 

 








 


ほととぎす

われも 血を吐く

思いかな


        
              木 鶏









われもまた

死士と呼ばれん

白牡丹



         ~ 木 鶏




木鶏(もっけい)は、俳句にも親しんだ
中島三郎助の雅号であり、
他にも200余りの優れた作品が
伝えられています


上の二句は、戊辰戦争最後の決戦
函館戦争を前に詠んだ
辞世の句と言われています







 











 










 


 『浦賀与力 中島三郎助伝』によると、
榎本艦隊に加わったある志士の回顧談では、

「中島という人は、素志を通して遂に死んでしまったが、私は真に感服した中の一人であります。
箱館を取られて、官軍が五稜郭に迫ってきた時に、将官の会議があって、どうしようかという相談があった。その時、降参説を唱えたのは、中島である。
 これまで尽くしたから、もう沢山だ、この中には若い人もあるし、まだ二千余りの人もあるから、これから先やっていたらどんなにみっともない事ができるか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は、軍門(官軍)に降伏して皇裁(天皇の裁き=判断)を仰ぎ、他の者の為に謝罪するがよろしいという、軟派の説を取ったのが中島三郎助である。」

 

 「三郎助は、のちに五稜郭に新政府軍が迫った時の評議で、軍には若い人もいるから、降伏謝罪する道を説いている。
 榎本がそれではお前はどうするのかと問うと、
恭順説は私以外の者の為の論だと答えている。
これを見ると、三郎助は、浦賀奉行組の少年達を強引に千代ヶ岡に伴って行ったとは思われない。千代ヶ岡での討死の決意を披露し、少年達の意見を聞いたであろう。・・・」
とも書かれています。

 
 ・・・こうして、自分だけは、滅び行く徳川家への忠誠を持って、殉死の覚悟で最後まで闘うつもりの三郎助でしたが、若い二人の息子や、少年兵たちには、降伏してでも生き延びてほしいと、最後まで説得したのでしょう。
 それにもかかわらず、壮烈な戦いの中で、共に果てた命が惜しまれます。
 中島三郎助こそが、ラストサムライだと感じます。

                   




 





 






 左記の手紙が書かれた時期ですが、

三男:與曾八が誕生したのは
 慶應4年2月19日(1868年)3月12日、

戊辰戦争が勃発したのが、
 慶応4年(1868年)1月

中島三郎助が榎本武揚と共に江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ向かったのが、
 慶応4年(1868年)8月19日(10月4日)

この手紙は時期的には、戊辰戦争前夜の頃となるのでしょうか。   




 

   三郎助は、長男と次男を連れて、蝦夷地へと渡りましたが、郷里の沼津には、妻すずが留守宅を守っていました。その妻あてに、三郎助が書いた手紙が残されていて、読む人の心を打ちます。

(口語訳) 「私は、病気がちで若死にと思っていたが、はからずも49年も生きられた。天の助けともいうべきことだ。今度はいよいよ決戦で、いさぎよく討ち死にと覚悟している。

 しかし、恒太朗、英次郎、そして浦賀から来た者も、同様の決意をしているのは、実に心苦しい。
何度も翻意するよう説いたが、聞き入れない。もう仕方がないと思っている。江本殿らは、五稜郭に籠って、討ち死にの覚悟。いずれあの世でお会いしましょうと、笑ってお別れした。

 そなたには、不肖私への永年にわたるお尽くしようめてお礼を申し上げる。心を強く持ち、賊臣の妻と後ろ指をさされようともくじけず、子らをよろしく頼む。もし、男児が生まれたなら、私の心を継いで、徳川家の大きな御恩を忘れず、忠勤に励んでほしい。」


 三郎助の妻・すずは当時、赤子を身ごもっていました。父三郎助と共に最後まで戦う固い決意を揺るがすことの無い長男と次男、それに変わる中島家の後継ぎとして、三男・與曾八が無事に誕生したのは、その後、間もなくのことでした。













中島三郎助と親交のあった人として、
木戸孝允(桂小五郎)の逸話がありました。

 「木戸孝允は、安政2年(1855年)、中島家に寄宿し造船学を学んだ。短期間の付き合いだったが、三郎助は木戸の才幹を認めて家族ぐるみで厚遇した。

 木戸は明治政府の高官となったのちも、三郎助から受けた恩義を忘れることはなく、酒席で中島父子の陣没(敗死)を聞くや、酒を下げさせて嘆息した。

 明治8年(1875年)に窮迫した三郎助の妻が、二子(娘と與曾八)を連れて、自邸を訪問するや歓喜し、恩師(三郎助)の厚情を語った。さらに三郎助の娘を養女にしようとしたが、家庭内の事情から断念し、榎本に諸事万端遺族の保護を依頼した。

 明治9年(1876年)、明治天皇の東北巡幸に随従して五稜郭に向かう途中、中島父子の戦死地付近を通過した木戸は往時を回顧し、人目をはばかることなく慟哭したという。」  
                    (Wikipediaより)             

 





おそらくは
恋も、青春期の楽しみも、経験すること無く
この北の地に果てた
中島家のご子息たちに・・・


慶応3年(1867年)、蝦夷地への出航1年前に、
恒太郎は与力の娘と婚姻していましたが、
その妻は、わずか数カ月後に亡くなったという記述が
ありました。

恒太郎20歳、新妻16歳の時でした。





 





そして共に戦い、命尽きた
名も無き全ての義士たちに・・・
若き少年兵達に・・・


 





「旧箱館区公会堂」



Commodore
Matthew Perry


函館山と、旧公会堂を背にしたペリー提督像





 



  函館港を見下ろす元町地区の高台に建つ旧函館区公会堂は、左右対称のコロニアルスタイルと、ブルーグレーとイエローの色がひときわ目立つ、美しい建物です。明治43年(1910年)に建てられました。
 当時としては最もモダンな建物であったこの公会堂は、元町のランドマークと呼ばれ、国の重要文化財に指定された、函館の貴重な財産の一つとなっています。

 その旧公会堂と、函館山を背景に、一人の立派なアメリカ人の像がありました。
そう、かの有名なペリー提督です。

 1853年7月8日、東インド艦隊司令長官に就任したマシュー・ペリーは、大統領から日本開国の指令を受け、当時最新鋭だった大型蒸気軍艦サスケハナ号を含む4隻の艦隊(黒船)を編成し、浦賀へ入港しました。その時に応接したのが、幕末の最終戦争「箱館戦争」を戦った中島三郎助でした。当時、三郎助は、浦賀奉行所の与力という役職にありました。

 その翌年、再度浦賀に来航したペリーの圧力に屈し、1854年3月31日、江戸幕府は、日米和親条約を結びました。この条約によって日本は下田と箱館を開港し、鎖国体制は終焉を迎えることになります。

 



 




箱館戦争ゆかりの地 「咬菜園跡」
元町の弥生坂

地元民でも、知る人ぞ知る…
つまり、あまり知る人の無いエリヤのようです










 




後ろを振り返ると、函館港が…
この弥生坂は、数ある元町西部地区の坂
の中で、一番長い坂であり、
近代的なビルが建つ前は
一番、港が見渡せる絶景が広がっていたとか…。