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土方歳三の終焉の地    2016






土方歳三  in 五稜郭タワー





 


     五稜郭に立つ 土方歳三
 
天保6年(1835年)に、武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、文久3年(186年)、幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、尊王攘夷の嵐の吹き荒れる京都で新撰組を結成、「池田屋事件」などの討幕派浪士に対する徹底した取り締まりと同時に、「鬼の副長」として、新撰組隊士を厳しく統率して恐れられた。

鳥羽伏見の戦いや、甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新撰組組長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、宇都宮、会津と闘い続け、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し、蝦夷地に渡った。ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、いわゆる蝦夷共和国では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。

箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869年)からの新政府軍からの攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した。

しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護する為に出撃したが、一本木関門で銃撃を受け、35年の生涯を閉じた。
(案内板より)

 




新撰組ゆかりの称名寺に設置された
「新撰組 足跡帳」など


 









  土方歳三最期の地

新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。  

明治元年(1868年)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。
翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・大野町)だけは最後まで落ちなかった。

しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。


(函館市)








土方歳三 最後の地

一本木関門




 




「土方・啄木 浪漫館」

1F: 土方歳三 記念館
2F: 石川啄木 記念館

かなりレアな展示品や、レア情報があります
是非!
 




入口を入ってすぐに
土方さんが出迎えてくださいます








 




「土方・啄木 浪漫館」 正面側

 








 








生き方そのものが
格好良かった土方さん・・・



 




土方愛用のリボルバー拳銃
伝説のルフォーショウ



 















 

アームストロング砲(後装施条大砲)

19世紀は前装式カノン砲が主流であったが、1850年代にイギリスではWilliam Armstrong によって後装砲が開発された。佐賀藩はグラバー等の仲介で、逸早く輸入し、それを基に藩内での製造を成功させた。戊辰戦争では「佐賀の大砲」として威力を示し、戦いの明暗に大きな影響を与えた。
 佐賀藩製造6ポンドアームストロング砲
   
(佐賀藩=官軍、新式・イギリスより購入)
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カノン砲 ー19世紀ー  (滑腔前装式大砲)

1861年~65年のアメリカ南北戦争で主力を占めた火砲であったが、すでに欧米では威力を飛躍的に高めた後装式が開発され、また施線砲も実用化されていた。南北戦争終結後、前装砲は遺物化されつつあったが、日本では鳥羽伏見の戦いが始まり、欧米にとって格好の売り場となった

(旧幕府軍、遺物同様の旧式を米より購入)



 ( ただ、武器に関する説明を書き出しただけでしたが )
なんだか中東地域の政治状況に酷似しているように感じます。国内を2つの勢力に分断して、両方に武器を売り、でも、公平・均等にではなく、革命側を支援して勝利させ、その国を解体して、傀儡政権を樹立する…そんなパターンのような???

…まさか。…でも気になりました。

 
 

クルップ砲 (向かって右・奥)(官軍)

旧幕府軍の軍艦に撃沈された新政府軍軍艦朝陽の大砲で、ドイツクルップ社製、推定射程距離3000メートル、1932(昭和7年)七重浜埋め立て工事の際に発見されたそうです。

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ブラッケリー砲 (手前)(旧幕府軍)

旧幕府軍が築島台場に設置していたもので、イギリスオードナンス社製、推定射程距離1000メートル、1961(昭和36年)函館市内豊川町で発見されたようです。

…ご覧のように、新政府軍の方が、3倍もの射程距離を持ち、圧倒的に強かったことが分かります。旧幕府軍は、勝ち目のない古いものを、買い取らされたということでしょうか。
圧倒的な資金力の差もありましたが…。





 



ブラッケリー砲     クルップ砲

五稜郭公園内の
箱館奉行所前にあります

 




鷲の木上陸地(森町)から見た駒ヶ岳



榎本軍(旧幕府軍) 鷲の木上陸地

旧暦10月20日は、西暦では12月3日でした。
積雪30cmの「蝦夷地」に到着した彼らの思いは
いかばかりだったことでしょうか…




 
 明治元年(1868年)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲の木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が、上陸しました。上陸時の鷲の木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪出会ったと言われる。

 榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天、蟠龍、長鯨、神速、鳳凰、回春、大江)で、この時の人員は、榎本を始め、松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久衛門ら、2千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。

 当時の鷲の木村は、戸数約150、人口約800で、茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。21日、人見勝太郎以下、32名の先発隊が、峠下村(現七飯町)で待ち構えていた官軍と激戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。
 開戦と共に鷲の木村は、榎本軍の後方陣地となり、明治2年の箱館戦争終結まで、負傷者や病人たちの療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。

 今も鷲の木の墓地には、榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には、上陸記念碑や慰霊碑があります。

平成24年3月  森町











榎本武揚率いる旧幕府軍と共に戦った
フランス士官ブリュネのスケッチ






 
 




鷲の木の浜辺に憩うオオセグロカモメたち