花と光と風と…
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漢に生きた丈夫(マスラオ)たち  Spring  2016





五稜郭のお堀に咲くスイレン




五稜郭跡北側の裏門橋付近には
とりわけ赤いスイレンが咲き
訪れる人の目を和ませてくれます




 


      「愛しき日々」

風の流れの 激しさに
告げる想いも 揺れ惑う
かたくなまでの 一筋の道
愚か者だと 笑いますか
もう少し時が ゆるやかであったなら


雲の切れ間に 輝いて
空しき願い また浮かぶ
ひたすら夜を 飛ぶ流れ星
急ぐ命を 笑いますか
もう少し時が 優しさを投げたなら


愛しき日々の はかなさは
消え残る夢 青春の影


生まじめすぎた まっすぐな愛
不器用ものと 笑いますか
もう少し時が たおやかに過ぎたなら

愛しき日々は ほろ苦く
一人夕陽に 浮かべる涙

愛しき日々の はかなさは
消え残る夢 青春の影


  (『白虎隊』主題歌:堀内孝雄)

      『愛しき日々』





土方歳三の墓、   一本木関門












 




恒太郎(長男)       中島三郎助(父)
英次郎(次男)

(お詫び:先に掲載した文には間違いがありました)

三人がこの函館戦争で討ち死にした時、
浦賀で留守を預かる三郎助の妻、すずは
三男を出産して間もない身でした。
その後、その三男・中島與曽八(よそはち)は、
榎本武揚、桂小五郎や佐々倉桐太郎の尽力で、
恒太郎の跡を継ぐ形で、静岡藩三等勤番組となり、
家名を残しました。
グラスゴー大学に留学し、海軍機関中将となり、
勲一等旭日大綬章を受章しています。

(中島父子の死後に、この三男・與曽八が、
こうして無事生き延びて、ご活躍をされたことは
せめてもの慰めです)

 





箱館戦争時、「千代ヶ岡陣屋」という五稜郭の
前線基地で戦死した中島三郎助とその息子らを
慰霊した石碑。
毎年5月の箱館五稜郭祭では
碑前祭が行われます。


中島父子の戦死した明治2年5月16日(1869年6月25日)は、三男・與曽八が生まれた1年後です。

中島 與曽八: 慶應4年(1868年)2月19日誕生


(当初、ある一説のみの情報で間違った記載をしてしまいました。訂正し、お詫びいたします)


 


 






五稜郭:函館奉行所

蝦夷共和国(旧幕府軍)が命がけで
死守しようと闘った城郭です



 

 中島三郎助は神奈川県浦賀生まれ、浦賀奉行配下の役人であり、1853(嘉永6)年、三浦半島浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込み、ペリー提督らと直接応接して、日本外交史で重要な役割を果たします。

1855(安政2)年に幕府が創設した長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方に就任。

明治維新後、榎本武揚と行動を共にし、軍艦8隻を率いて北海道にやってきました。箱館戦争当時、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。

新政府軍は箱館を制圧すると、降伏勧告をしましたが、 中島はそれを拒絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」

という辞世の句を残しています。

 (函館市「はこぶら」より)     



 




「碧血碑 旧幕府軍の墓 入口」







 




     碧血碑

 凾館戦争のさい、官軍との交戦で
 倒れた新撰組の土方歳三ら旧旧幕府軍
 の戦死者、約800人の霊がまつられ
 ています。






ベニサラサドウダン

かつての福島県知事の献樹







 





 

       献樹

1.樹種  ベニサラサドウダン
ベニサラサドウダンは、福島県会津地方の山地にひろく自生している樹木である。
遠くこの地にねむる会津藩士のためこれを献樹し、つつしんでその霊を慰めるものである。

昭和55年10月15日
福島県知事  松平 勇雄 

              





 

…この当時の福島県知事の松平勇雄氏を
調べてみたところ、
かの松平 容保(かたもり)の
子孫であることがわかりました。
松平容保は、幕末の大名であり、陸奥国会津藩の
第9代藩主(実質的 に最後の藩主)です。
京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には
水戸藩主・徳川治保 の子孫です。
現在の徳川宗家は容保の男系子孫です。






 








       碧血碑

 凾館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は七回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時、陸軍奉行であった大鳥圭介の書と言われている。

 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。

 なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は、3年経つと碧色になる」という、中国の故事によるものである。

      (函館市の案内書より)














碧血碑の『台座裏16文字』

明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志
 明治8年5月
  ↓ ↓ ↓
「明治辰巳、実に此事有り、石を山上に立てて以て厥の志を表す」
  ↓ ↓ ↓
「明治2年、此の事は実際にありました。山上に石を建てて悲しみの気持ちを表します」

 




戊辰戦争、函館戦争で亡くなられた無数の尊い命への
哀悼の祈りを捧げます