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澤辺琢磨(龍馬のいとこ)とロシア正教  Winter  2016





クリスマス・ファンタジーを彩る巨大モミの木








毎年、函館市と姉妹都市である、カナダ・ハリファックス市より巨大モミの木のクリスマスツリーが、約1万8000kmの距離を越えてやって来ます。約10万個のイルミネーションで飾られ、夜には一層の美しさで訪れた人々を魅了します。
ハリファックスは、私にとっても思い入れのある忘れられない土地であり、つながりを感じます。

今年のクリスマスは、信者ではありませんが、函館の元町地区にある、かの『ハリストス正教会』(ロシア正教会)で、そのミサに参加してきました。
その理由の一つは、坂本龍馬の実の従兄弟が明治維新の前夜(直前)に、この函館で、ロシアから宣教に来たニコライ大司教に出会い、ついに改宗して宣教師となったという話を聞いたからでした。
 









 



 






沢辺琢磨





 

かの坂本龍馬に従兄弟がいた!
その名前は、沢辺琢磨(旧姓:山本数馬)。
それも、父親同士が実の兄弟だという正真正銘の血のつながる従兄弟であり、更には同い年で、川を挟んですぐ近所に住み、共に仲良く成長した間柄だったという事を、最近になって知りました。
また、この沢辺は、かの武市半平太の親せきにもあたります。

その話を聞いた当初は、誰かがかなり遠い親せき筋にあたる人を探し出してきて、何とか関連づけようと加筆したのではないかと思ったりもしましたが、事実を裏付ける書籍は山ほどもありました。
そして、坂本龍馬や、武市半平太に勝るとも劣らないほどの数奇な人生を歩んだ不屈の信念(信仰)の人でした。

沢辺琢磨 Wikipedia

澤辺琢磨(山本数馬) はこぶら


 

沢辺 琢磨は、日本人で最初の正教徒となり、後に伝道師、最初の司祭となった人です。ニコライと共に、日本正教史では忘れられない人物です。しかもニコライとの出会いは幕末の志士にふさわしい劇的なものでした。1835年、土佐藩の郷士、山本家の長男として生まれ、幼名は山本数馬。坂本龍馬は従兄弟に当たり、武市半平太とも血縁でした。

初め、剣客として頭角を現し、神道無念流練兵館、北辰一刀流玄武館とならぶ江戸三大道場の一つ鏡心明智流の桃井道場で、師範代を務めるほどでした。ところが、彼の運命を大きく変える一大事が起きました。酒を飲んだ勢いで、道で拾った金時計を売り飛ばしたのが発覚し、あわや切腹仰せつけの事態になるところを、龍馬や半平太に助けられて、江戸を逃れ、ついに函館に渡ったのです。函館では、道場を開いて生計を立るなか、知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助に気に入られ婿養子となり、そして跡継ぎの神主となったのでした。函館には、ロシア帝国の領事館があり、その館員に日本の武道に興味をもつ者があり、琢磨は請われて指南役となります。そこで日本に宣教に来て3年目のニコライに出会います。








ニコライ
(日本に正教を伝道した大主教)
琢磨が心底、敬服し、従った

ニコライ(日本大主教)


 



クリスマス・イヴのミサの後で・・・











 
 

元々、攘夷論者で、大の外国人嫌いだった琢磨はニコライ神父を外国のスパイと信じて疑いませんでした。ある日ニコライを訪ね、率直にその訪問の意図を問い尋ねました。返答次第では斬殺する覚悟だったのです。ところが、ニコライは、琢磨の疑念に答えるとともに、正教の教えを知っているかと尋ねます。「知らない」と琢磨が言うと、「まず知ってから善悪を判断しても遅くないだろう」とニコライは返します。「なるほど、一理ある」と思った琢磨は、ニコライのもとに通って正教の教えを学ぶようになったのでした。やがて琢磨はニコライに心服するようになり、まだ禁教令が撤廃されていなかった慶応4年4月(1868年)に、友人とともに洗礼を受けました。与えられた洗礼名はパウェル(パウロ)で、ニコライの期待のほどがうかがわれます。
 まだまだ攘夷論が盛んななか、“邪教に改宗した神主”の一家は、厳しい迫害を被り、琢磨は何度か逮捕、投獄されています。やがて明治政府が禁教令を廃すると、琢磨は釈放され、公の布教が可能になりました。そして1875年(明治8年)、琢磨は日本人初の司祭に叙聖されることになりました。
琢磨はこうしてロシア正教の布教に生涯を捧げ、師ニコライが1912年(明治45年)に永眠すると、翌1913年(大正2年)に後を追うように逝去し、青山霊園に今、静かに眠っています。

(ロシアNOWのWeb記事:
「日本人初の正教司祭の沢辺 琢磨が永眠」
を参考にしました)






     箱館新明社 (現:山上大神宮)

沢辺琢磨(旧姓:山本数馬)は、この神宮の宮司である沢辺悌之助に、その男意気を見込まれ、娘の婿(娘の夫)となります。そしてその神宮の後継ぎとして神官の職に就くようになります。

その後間もなくして、ニコライとの宗教論争の挙句、「ミイラ取りがミイラになる」如く、ロシア正教に改宗します。その当時、そのことは周囲の人々の到底受け入れられない事件であり、激しい批判の対象となりました。そして家族、親族を巻き込み、一時は不幸のどん底まで落ち込みます。
けれども、彼は、一旦信じたその信仰を覆すことなく邁進し、日本で最初のニコライ神父の初穂(最初の信者)として、その道が幕末から明治維新の戦争で疲弊した日本の再建の道と信じて献身的歩みを続けます。











 箱館新明社 (現:山上大神宮)


 




山上大神宮 (案内板)






 


京都の同志社大学の創立者として世界的に知られる新島襄が、この箱館からアメリカに向けて密航し、
やがてアメリカの大学を卒業して帰国できたのも、この沢辺琢磨が、この箱館で密航の手配をして手伝ったからだという事も記録にあります。また、箱館での宣教の後、東北に向かい、多くの人々を感化して、改宗に導いた武勇伝も多く残っています。その中でも、水沢藩主(岩手県)の奥方をも改宗へと導いたことなどもその伝記に伝えられています。
当時、東洋一と言われた聖堂「ニコライ堂」を、東京の神田駿河台に立てたのも、この沢辺琢磨の先頭に立った尽力あってこそと言われています。

これほどの人物なのに、あまりにも知る人が少ないのは淋しいものです。










カワセミも、川べりの木に止まって・・・










雪の中に、コウライキジが・・・
感動しました!










ダイサギ










カワセミ





仲良しコガモのカップルです