♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
花と光と風と…
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 長崎グラバー邸 A    January 2010





「マダム・バタフライ」を30年演じ続けた
三浦環(たまき)の像
明治の長崎を舞台にした世界的オペラ
『マダム・バタフライ』は
イタリアの作曲家プッチーニの傑作です。











グラバーの胸像

長崎の街を見下ろしつつ、今、何を思うか
グラバーさん…








  ジャコモ・プッチーニと蝶々

明治の長崎を舞台にしたオペラ『マダム・バタフライ』はイタリア人作曲家、ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)の傑作。彼の生地イタリア国ルッカ県およびマダム・バタフライ・コンクール協会から、両都市の友好と世界平和の願いを込めて寄贈されたもの。像の作者は、フランス人彫刻家ジルベール・ルピーグル。


1996年6月























倉場 富三郎
Tomisaburo Awajiya Glover
(1871年1月28日〜 1945年8月26日)

 幕末から明治維新にかけて活躍した貿易商トーマス・グラバーと淡路屋ツルの長男として長崎に生まれる。
父の興したグラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社。また長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍する。

(Wikipediaより)

      倉場富三郎













グラバー邸のサロン









「彫刻」(こま犬)

キリン・ビールのラベルの元となったモデル
諸説ありますが、キリンビール本社によると、
「1889年のラベルデザインを提案した」のが
グラバー商会の、トーマス B. グラバーで
間違いは無いとのこと。
実際にそのロゴマークをデザインした人は
今の所、不明だそうです。






 
  この彫刻(こま犬)は、今日のキリンビール社のラベルの元となったものであり、また、ラベルの麒麟に、太い口ひげが描かれているのは、キリン・ビール社の前身であるジャパン・ブルワリ・カムパニーの社長を務めたグラバーの口ひげを元にしたものと言われている。

 




グラバー邸温室にある狛犬の案内板









ダイニング・ルーム




 




グラバー邸の花壇









富三郎とワカ夫妻には子がありませんでした




 




グラバーの生地、スコットランドの
トーマス・ブレイク・グラバー・ヘリテイジセンター
寄贈の品々

グラバー氏愛用のトランク、ステッキなど





















   グラバー氏と その家族

トーマス・ブレイク・グラバーと、息子 倉場富三郎、親子二代の90年の足跡は、近代長崎のいしずえとなった、造船・漁業の歴史を語る時に欠かすことができない存在として、はかり知れない影響を与えている。

彼は、1861年(文久元年)長崎でグラバー商会を開設し、西南諸藩との武器・艦船などの輸入、茶・絹などの輸出をするなどで、商会での経営は順調であった。また、幕末から明治維新にかけても、倒幕の志士たちとも深くかかわりがあり、晩年、日清・日露戦争の功績により、日本政府から、勲二等旭日重厚章を外国人として初めて授与された。

  (グラバー邸内の案内板)









オルト
William John Alt
1840(天保11)年〜1905(明治38)年



 モッコウバラで彩られた華やかな洋館。
『旧オルト住宅』は、現在グラバー園を訪れた人を陶酔させる豪華な佇まいの、日本最初の洋風石造り建物だ。しかし彼自身のことは、あまり知られていない。
ブライアン・バークガフニ
(グラバー園名誉園長)

オルトが長崎に来たのは、グラバーとほぼ同じ時期の1859年10月、多くの貿易商人たちと同じく、ビジネスチャンスを夢見ての来日だった。当時、彼はグラバーより2歳年下の19歳。 その後「オルト商会」を立ち上げ、長崎の商人大浦お慶と提携し、日本茶の輸出事業で巨額の利益を得た。また土佐藩の岩崎弥太郎との関わりも深く、艦船や武器の販売、土佐の物産の輸出で密接な商取引を重ねた。坂本龍馬が新しい国家体制の要項を示したあの有名な『船中八策』は、土佐商会がオルトから買い付けた汽船・夕顔丸の船中で行われたものだ。

オルトは日本滞在が12年ほどと短く、グラバーのように法を乗り越えてまで日本人に肩入れすることはなかったようだ。それでも彼がグラバーに匹敵する有力な貿易商人だったことは間違いない。





(グラバー邸内の案内書)







旧オルト邸 (グラバー園内)





匂うように咲き誇る木香バラ





木香バラ (原種バラの1種)





華やかなオブジェ









大浦 慶
1828年7月30日〜1884年4月13日

江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性商人。
日本茶輸出貿易の先駆者。
楠本イネ・道永栄と並ぶ長崎三女傑のひとり。
オルトと提携して、日本茶の輸出に貢献した






大浦 お慶

大浦 慶  (おおうら けい)





 
国際感覚あふれる商売で 外国商人の信用も厚く

『長崎の3大女傑』のひとり大浦お慶は、日本の製茶貿易業の開拓者と言われている。
自由貿易前の鎖国時代、当時誰も思いつかなかった製茶の海外輸出を、時代のニーズを読み、大胆な行動と誠実な取引で行って巨万の富を築いた。
(ブライアン・バークガフニ(グラバー園名誉園長)

当時、ヨーロッパ、アメリカで緑茶が好まれている事を知ったお慶は、嬉野茶の見本をアメリカ、イギリス、アラビアの3カ国に送ってもらうよう、出島のオランダ人テキストルに託す。それから待ち続けること約3年、その見本を手に来崎し、大量の発注をしてくれた英国商人こそオルトだった。10万斤(60t)という大量の日本茶を九州一円の産地をまわって集め、約束どおりの取引をやり遂げた事が、その後外国商人たちから、「信頼できる日本商人」と認められる実績につながった。製茶貿易を思いついた時、お慶はまだ20代だ。

しかし1871年の「遠山事件」で詐欺に巻き込まれた時から、彼女の人生は凋落をたどる。お慶を信用して結んだ取引で被害に遭い、彼女に多額の賠償を請求したのは「オルト商会」だった。商売に真偽を重んじるお慶にとって、信用を失ったことは、痛恨の極みだったに違いない。

 

(グラバー邸内の案内書)

   
江戸時代の長崎における有力商人、大浦家は代々油問屋を営み、慶の代にウィリアム・ジョン・オルトと共に茶貿易を始め利益をあげる。
又、坂本龍馬、陸奥宗光ら 勤王の志士達にも資金援助をおこなっていた。




ウィリアム・ジョン・オルト

ウィリアム・ジョン・オルト(いろは丸事件)

いろは丸沈没事件

坂本龍馬と「いろは丸沈没事件」
賠償金は7万両に減額されたうえで11月7日に長崎で土佐藩に支払われ、
更にその後龍馬に支払われるはずだったが、8日後の11月15日に龍馬は京都川原町の近江屋で
暗殺された。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか 2

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか 3
・・・龍馬暗殺の黒幕は少なくとも武力討幕派の中にいて、彼らのメンバーの多くが
後の明治政府の中枢部にいた。
だから、龍馬暗殺事件については徹底した原因追究がなされることがなかったし、
できなかったのだと考えている。

幕末:孝明天皇
いつの時代も、またどこの世界においても、正史や通史として書き残された歴史の大半は、
勝者にとって都合の悪いものが排除され、都合のよい解釈だけが残されたものなのだと思う。