ノートルダム大聖堂とセーヌ河畔 2009 |

西の『バラ窓』
Rosace
聖母マリアの像が円形のバラ窓を光輪(後光)のように
背負っています
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ノートルダム大聖堂
Cathédrale Notre-Dame de Paris
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南側の豪華な『バラ窓』

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十字軍のエルサレムなどへの遠征の結果、
香りの良いダマスクバラやその香油が、イスラム
圏からもたらされ、急速に広がり始めました。
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「ノートルダムのせむし男」で有名になったノートルダム寺院(大聖堂)は、パリの街中を流れるセーヌ川にはさまれたシテ島にあります。
そのシテ島には、「ポン・ヌフ」(新しい橋)と呼ばれるパリで最も古い(!?)橋を渡ります。
この大聖堂は、フランスのゴシック建築の傑作と言われ1991年「パリのセーヌ河岸」という名称で、ユネスコの世界遺産に登録されました。
ノートルダムは「我らが貴婦人」という意味です。
そして、この場合の貴婦人は「聖母マリア」のことを意味します。つまり大聖堂は「女性の中の女性」とされるマリアにささげられた建物ということになります。
その大聖堂には「ばら窓」と呼ばれる円形の大型ステンドグラスが三面あります。
正面から見える西のばら窓は直径十メートル、側面にある北と南のばら窓は直径十三メートルもの大きさです。
では何故、信仰の象徴の「ユリ」ではなく、「バラ」なのでしょうか?
初代キリスト教では、トゲのあるバラは「邪悪な花」とされていました。キリスト教徒たちは、自分たちを迫害するローマ人を象徴する花として、バラの花を「異教徒の花」「堕落の象徴」として嫌っていたようです。
しかし、キリスト教がローマ帝国に公認されるようになると、「バラには元来トゲがなかった」とする教えが登場するようになり、教会はバラを徐々に取り入れるようになっていきます。
バラはこうして「邪悪な花」から「気高い信仰の花」へと変身をとげたのでした。
そして赤バラは殉教者の血を象徴し、白バラは聖母マリアの純潔のシンボルとされました。
こうした背景には、いかに禁じても熱烈に愛されるバラを布教に利用する意図があったからとも言われています。
パリのノートルダム大聖堂は12世紀中ごろに着工され、徐々に改修を重ねながら現在の姿になりました。
その中で、土着信仰とキリスト教が結びつき、聖母マリア信仰が広められ、マリアに捧げるバラ窓が取りつけられたとのことです。
そして、 薬草として修道院で細々と続いてきたバラ栽培が庶民に広がり始めたのも、この頃で、その後、西欧で一気に脚光を浴びるようになります。
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最後の審判の門
Jour du jugement
キリストの足元では、大天使ミカエルと悪魔が
人々の行いの善悪を天秤にかけ、それぞれ、
天国と地獄に引き連れていきます。

殉教者『聖ドニ』の像
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カール大帝=シャルルマーニュ
Charlemagne
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ノートルダム大聖堂の脇には、カール大帝(シャルルマーニュ)の騎馬像が立っています。
カール大帝は、現在のフランスやドイツをはじめ、ヨーロッパの大部分を支配しました。
そして西暦800年、カール大帝はローマ教皇によって西ローマ帝国の皇帝に選ばれました。
1804年5月に帝政を宣言したナポレオン・ボナパルトの戴冠式は、1804年12月2日、ノートルダム大聖堂で行われました。
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「ポン・ヌフ」=新しい橋=(パリ最古の橋)
Pont Neuf
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アンリ4世の騎馬像=ブルボン王朝の創始者
Henri IV
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セーヌ川を走る水上バス
BatoBus La Seine
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パリの歴史は古く、紀元前300年頃に、このシテ島にケルト人のパリシイ族が定住しました。
彼らはこの地域を「水に囲まれた住まい」という意味の「ルテティア」と呼びました。
紀元前52年頃、フランスをガリアと呼んでいたローマ帝国軍がここに侵攻してきます。
そしてついにルテティアはガリア総督のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)によって征服されました。
やがて、ルテティアはパリシイ族の名前をとって
「パリ」と呼ばれるようになりました。
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カルチェラタン界隈 ≪ Quartier Latin ≫ |

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パリ大学 (ソルボンヌ大学)
Université de Paris La SorbonneLa Sorbonne

Université de Paris
La Sorbonne
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大学前のカフェ

昼に公園で憩う学生たち
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リュクサンブール宮殿
Palais du Luxembourg
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パリのおまわりさん
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バスチーユの記念塔
Monument Bastille
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イタリアンのラザーニャ
パリでイタリアン???
・・・とっても美味しかったです!
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