岡崎城 February 2010 |
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奥三河、新城市の石雲寺の境内の一角は
この小さくて愛らしいセツブンソウの花で
溢れていました
本当に夢心地の気分でいっぱいになりました!
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セツブンソウ 節分草 学名:Eranthis pinnatifida
キンポウゲ科セツブンソウ属の多年草
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早春に芽を出し節分の頃に花を咲かせることから
この名があるそうです
確かにこの奥三河の地では
なんと2月中旬に満開でした!
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至るところに桜の花も…!
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徳川家康は、1542年(天文11年)12月26日、岡崎公園内の二の丸(現在の能楽堂)で生まれました。
幼少の頃は人質として苦難の道を歩き、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦に大勝して天下を治めるに至りました。
以後、持ち前の才能を活かし、全国統一の念願を果たすとともに徳川幕政300年の基盤を作り、元和2年(西暦1616年)4月17日、75歳でこの世を去りました。
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岡崎城入口
長い塀の奥手に、立派な大手門が見えます
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岡崎城
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徳川家康公像
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岡崎城 大手門
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家康公生誕450年祭記念像
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左の銅像は、生誕450年祭の一環として、実行委員会が寄贈したもの。
この若き元康(徳川家康)の騎馬像は、城を背にし、やがて大権現として再生する日光東照宮の方角を向いています。
背景の石垣と滝は、治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様を示しているそうです。
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≪方位図≫
この岡崎公園にある家康公の像の側には、「方位図」があり、興味をひかれました。
まず、静岡の久能山東照宮から、東西に一直線に伸びる道は「太陽の道」です。久能山から西に向かい、鳳来寺山、岡崎(大樹寺)、を結んで西の京都に至る道です。
そして江戸から真北の北極星の方角に伸びる道を「北辰の道」と言い、その先には、日光(男体山)があります。
また、久能山から日光東照宮(男体山)に向かう道は「不死の道」と書かれてあり、その直線上に、富士山(不死山)と、世良田があります。世良田(群馬県太田市)は徳川家発祥の地とされ、3代将軍家光公が、日光の奥社殿を移築し、世良田東照宮としたのだとのことです。
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東照宮方位概念図
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亀の上には有名な家康公の「遺訓碑」
「人の一生は重荷を負いて…」
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からくり時計
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世に云う「しかみ像」(徳川家康、三方ヶ原戦役画像)は、元亀3年(1572年)10月3日、浜松の三方ヶ原で、武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れる事の無いように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情を表した珍しい肖像画です。
こちらの石像の「しかみ像」は、かの画像を元にして、制作された石像です。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎となったと云われています。
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しかみ像
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徳川家康 公
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本田平八郎忠勝 公
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この岡崎公園の近くにある大樹寺は、松平家(徳川将軍家の祖)、徳川将軍家の菩提寺です。
1475年 松平四代の親忠が古戦場の首塚の近くに念仏堂を設けたのが始まりです。
文明七年(1475年)に寺を建て、大樹寺と名づけました。
この寺は、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れた時に、今川軍についていた家康が、大高城から逃げ帰った場所です。そして、先祖の墓の前で自害を図ろうとした時それを思いとどめさせたのが、この寺の住職の登誉上人であったということです。
徳川家康が残した遺言は、
「予の遺体は久能山へ埋蔵せよ」
「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」。
…であったと伝えられています。
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三河武士のやかた
家康館
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真冬の岡崎公園
日本の歴史公園100選、
さくらの名所100選、
日本の都市公園100選
…に選ばれています
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家康像
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龍城神社
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