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西部元町:寺院群、 柳川熊吉翁のこと 2016 |
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![]() ロシア正教会 |
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![]() 「天守公教会」 (カトリック教会) |
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![]() 聖ヨハネ教会 (イギリス国教会:聖公会) |
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![]() 称名寺 (浄土宗) 函館開港当時は、フランス、イギリス領事館 としても利用されていました。 様々な有名人の墓と共に、 土方歳三と新撰組隊士の供養碑があります |
![]() 函館市、西部地区の一番西側にある 魚見坂付近には、由緒ある仏教寺院が 立ち並んでいます。 高龍寺(曹洞宗) 1633年~ 称名寺(浄土宗) 1644年~ 実行寺(日蓮宗) 1655年~ いずれも400年近い歴史を持つ由緒ある寺院で 度重なる函館の大火により、幾度となく焼失し、 移転して現在の位置に再建された歴史があります |
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![]() 土方歳三と新撰組隊士の供養碑 右のガラス張りの中には 彼らに対するメッセージを書くノートや、 折鶴、土方らの名前を記した 扇子が展示されています (称名寺境内) |
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![]() 高龍寺 (曹洞宗) 函館市の仏教寺院の中でも 最も古く、由緒ある寺院の一つ 函館戦争ゆかりの「傷心惨目の碑」があります |
![]() 高龍寺の案内書(抜粋) ・・・、函館開港当初には、実行寺と共に、 ロシア領事館一行の止宿所となり、 明治2年(1869年)の函館戦争時には、 函館病院の分院として、負傷者を受け入れた。 (函館市) |
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![]() ⇒ 「傷心惨目の碑」の右側の木は、 碧血碑の側に植樹されたのと同じ、 ベニサラサドウダンの木です。 当時の福島県知事、松平勇雄氏が 犠牲となった会津藩士の慰霊の為に植樹しました。 松平氏は、会津藩の最後の藩主、松平容保の 子孫とのことです。 |
![]() 傷心惨目の碑 (高龍寺境内) 明治2(1869)年5月11日、函館戦争最大の激戦が 箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は…、 旧幕府脱走軍の箱館病院の分院にあてられたが、 同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷 して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となった という。 明治12(1879)年、高龍寺は移転、翌13年に、 旧会津藩有志がこの碑を建て、惨殺された藩士を 供養した。 碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作 「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は、 中国南宋の忠臣、岳飛の真跡を写したものである。 (函館市) |
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![]() 実行寺 (日蓮宗) ・・・ また明治2(1869)年、箱館戦争終結後、 旧幕府脱走軍戦死者の遺体が、市中に放置された ままになっていた時、住職が侠客柳川熊吉と相談 して、寺に葬ったという美談も残されている。 (函館市:案内書の抜粋) |
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![]() 柳川熊吉翁の碑 柳川熊吉は安政3(1856)年に江戸から来て、 請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、 労働者の供給に貢献した。 明治2(1869)年の箱館戦争が終結すると、 敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、 「賊軍の慰霊は行ってはならない」との命令で、 市中に放置されたままであった。 新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、 実行寺の僧侶と一緒に遺体を集め、 同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の 田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。 明治4年、熊吉は函館山に土地を購入して、 遺体を改葬し、同8年、旧幕府脱走軍の戦死者を 慰霊する「碧血碑」を建てた。 大正2(1913)年、熊吉88歳の米寿に際し、 有志らはその義挙を伝えるため、 ここに寿碑を建てた。 (函館市) |
![]() 碧血碑の境内にある柳川熊吉翁の碑 ![]() 『碧血』とは 「義に殉じて流した武人の血は、 3年経つと碧色になる」 …という、中国の故事によります |
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