♪ 小さな私塾の先生から見た子ども達、風景、異文化の世界 ♪
花と光と風と…
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比叡山延暦寺  2009
 東塔 
 




比叡山から琵琶湖を望む・・・





緩やかな階段を下りて「根本中堂」へ





『根本中堂』






比叡山延暦寺は天台宗の総本山であり、標高848mの比叡山全域を境内とする巨大な寺院です。東には広大な日本一の琵琶湖を望み、西には京都市街の全景を眺めることができます。

比叡山延暦寺の「縁起」によると・・・

比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766〜822)でした。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(現在の根本中堂)を創建して比叡山を開きました。

最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。

最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。これが「仏教の総合大学」と称される由縁です。

特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育成したため、比叡山は「日本仏教の母山」とも仰がれています。

比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)、織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。

その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や、慈眼大師天海大僧正(1536〜1643)の尽力により、比叡山は再興されたといわれます。

さらに明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えて現在に至っています。

信長焼き討ち以後、千日回峰行や12年篭山行も復興されています。また昭和62年(1987)8月に、世界から仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、シーク教、儒教の七大宗教の代表者が集まり、世界平和実現の為に対話と祈りを行う「世界宗教サミット-世界宗教者平和の祈りの集い-」が開催され、以降8月4日に比叡山山上にて毎年開催しています。

(以上、比叡山の資料より引用)




               








宗祖 伝教大師の御心
『一隅を照らす運動』のお勧めについて

伝教大師は、私たちに一隅を照らす者は、国の宝である」と諭されております。

自分だけの幸せを求めるのではなく、社会の人々の幸せのために、自分の生きていく姿の中に最善を尽くすことが、お大師様の御心を現代に生かすことです。
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(境内の案内板より)





 
 




堂内は撮影厳禁のため、門からショット!











 
『鐘楼』





『国連平和の鐘』
ワールド・ピースベル・アソシエーション寄贈





 

坂道の両側には各宗の祖師達の絵看板が・・・





『大講堂』








『文殊楼』








『戒壇院』








『浄土院』拝殿








最澄上人の『浄土院御廟』
比叡山第一の浄域とされています


 




『東塔』







『阿弥陀堂』


 
 


祖師御行績(そしごぎょうせき)絵看板について

比叡山延暦寺は延暦七年(788)、伝教大師最澄上人が二十二歳の時に開かれた鎮護国家・人材育成の根本道場であります。

一千七百町歩(1700ヘクタール)にわたる延暦寺の寺域は、東塔・西塔・横川の三塔十六谷にわかれており、それぞれの堂塔伽藍では伝教大師の定められた制式に従って、鎮護国家と人々の平安を祈願して日夜修行が行われております。
鎌倉時代には浄土宗の法然上人・浄土真宗の親鸞聖人・臨済宗の栄西禅師・曹洞宗の道元禅師・日蓮宗の日蓮聖人などの各宗のお祖師さまたちが比叡山で修学せされ、それぞれの宗派をお開きになりました。
現在にいたりこの山は「日本仏教の母山」として教宗派を問わず多くの人々から崇められ、平成六年十二月に世界文化遺産として登録されました。

延暦二十五年(806)に桓武天皇によって立教開宗が認められ、平成十八年をもって天台宗は開宗千二百年を迎えました。この開宗千二百年慶讃大法会に当たり十方有縁のご協賛を得て、伝教大師を始めとする比叡山の高僧や、比叡山から輩出されたお祖師さまたちの御行績絵看板を修復して境内に掲げました。

この行績を拝読されることを通じて、伝教大師による「一隅を照らす」人材養成の理念に触れていただき、また触れていただくことが国宝的人材のあふれる明るい社会の建設を資するものであると願って止みません。

比叡山延暦寺


(以下は、それぞれの宗派の祖師の絵看板から説明書きを写したものです)
それぞれの絵の方は、表面に貼られたガラスの反射で写りが悪いため割愛しました。
また、肝心の最澄上人の絵看板は12枚もあり圧倒されて撮り忘れてしまいました。



 
天海大僧正(慈眼大師)(1536〜1643)

比叡山の僧にして徳川家康公の信任厚く黒衣の宰相として知られる。比叡山をふり出しに全国を修行して歩き再び比叡山を志した時、織田信長の比叡山焼き討ちに阻まれた。後、武田信玄の帰依も受け念願の比叡山に登った時、石田三成の挙兵を知り、神田薬師堂で護国の祈祷を修して家康公の信頼を得た話は有名、また家康公に山王一実神道を説き諸法度を下すのに参与し、後の後の秀忠、家光と三代の将軍について幕政に参画、政権確立に貢献した。中でも、日光山を与えられ、この造営に尽くし晩年、上野の東叡山寛永寺開山となり、国家安泰を祈ったことはよく知られている。




 



「一遍上人」の絵看板

 

法然上人(1133〜1212)
浄土宗御開山

久安3年15歳にして比叡山に登り登檀受戒した上人は、主に西塔黒谷に住して法然房源空と称した。以後20有余年間黒谷での求道の日々が続いた。自ら反省し修行に打ちこむうち、やがて上人は「叡智第一」と噂される程秀才ぶりを発揮した。比叡山を下りた法然上人は京都吉水の地に住房を構え法門に没入する生活に入った。しかし、当時の京洛は火災・盗賊・大衆兵乱と乱世さながらの様相であった。そんな中で貴族より武士庶民までさまざまの階層の信徒が吉水の地に参集した。包容力のある上人がそれらの人々を一身に受けとめていた。この時上人69歳。若い弟子親鸞聖人は29歳であった。(大講堂堂内に御木像を安置)





 
親鸞上人(1173〜1262)
浄土真宗御開山 (そば喰い木像)

丁度29歳の時、救世の為にはどうしたら?と有名な京都六角堂へ百日百夜の願をかけられた。毎夜ひそかに京の町へと出かける親鸞の後姿を見かけた同宿の僧達は、色々と悪口を云い、つげ口まで言う様になった。師匠は聖人の在宿を確かめる為、夜中俄かに蕎麦の御馳走を出した。その時ご自作の御姿が聖人の身代わりとなって蕎麦の御給仕をし共々おいしいと戴かれたという。以来、だれいうことなく(身代わり木像)或いは(そば喰い木像)とあがめる様になり、今なお無動寺谷の大乗院に安置されている。(大講堂堂内に御木像を安置) 




 
栄西禅師(1141〜1215)
臨済宗御開山

禅師は14歳のとき比叡山に登り得度受戒し、東塔北谷の竹林房にあって有弁僧正から天台学を学び、また顕意大徳より天台密教を受けた。のち二度にわたる入宋により臨済の法脈を相承し、天台・真言・禅の三宗ほ並べ弘めた。叡山の台密葉上流の祖でもある。(大講堂堂内に御木像を安置)





 
道元禅師(1200〜1253)
曹洞宗御開山

禅師は求法のため中国に渡り、て貞応2年(1223)春4月船は大陸の明州に着いた。禅師は船に留まって諸山巡拝の準備をしていた。そうしたある日日本の珍しい椎茸を買いに一人の老僧が船を訪れた。聞けば名刹阿育王山の典座(雲水の食事を司る役)和尚とのこと、禅師は早速日本の知識を披露し中国仏法をたずねて引き止めたが、老僧「貴僧はまだ修行が文字の中でなく日常の中にあることを知らぬ」と云って早々に去ってしまう。道元禅師はただ慙愧発奮するのみであった。(大講堂堂内に御木像を安置)


 
 日蓮聖人(1222〜1282)日蓮宗御開山

比叡山の定光院(横川地区)を本拠として10年の求道修行を続けた聖人は、大志を秘めて建長5年(1253)安房(千葉県)清澄む寺に帰った。ここで三昧堂にこもり禅定に入り一心不乱に祈念を捧げた。丁度7日目4月28日東天の白む頃聖人は房総の霊峰「旭の森」に登り、緑の山なみの彼方に水天蒼茫たる太平洋がひらける赫々たる太陽が昇ろうとするとき太陽に向かい合掌し「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と荘厳に声高らかに題目を唱えた。雄々しい開宗の宣言であった。時に聖人32歳。(大講堂堂内に御木像を安置)




 
 一遍上人(1239〜1289)時宗御開山

上人は10歳の時母と死別、浮世の無常を感じて仏門に身を投じたという。生まれ故郷の伊予(愛媛県)から九州にわたり専修念仏の修行にいそしんだ。比叡山・高野山・四天王寺・熊野と念仏勧化と修行の旅を続けるうち世を捨てた「捨て聖」と呼ばれ全国を遊行して歩いた。全国を遊行した後修行の根拠地京洛(京都)の地に足をふみ入れた時、上人に結縁する武士・農民・商人達は狂気のように上人を迎えた。当時乱れた京洛の地にあっては救世主以上の存在であった。(大講堂堂内に御木像を安置)






比叡山(2)西塔へ続く・・・